血統には「クロス」や「インブリード」という考え方があります。
同じ馬の血や全兄弟、全姉妹など極めて相似な血を近い世代に来るような配合をすることで、
その優れた血が増幅、凝縮された「新たな天才」を生み出そうという狙い。
あるいは国家としても競馬文化としても全盛だった頃の誇り高きイギリスがそうであったように、
自国で生み出され、醸成された血統のみを「正当」と認め、
それ以外の地域の血統を下等な「雑草、雑種」と捉えたために、
狭い世界での交配を繰り返してしまう。
結果、必然的に近い世代に相似な血統が配合されてしまうという弊害。
わかりやすく人間の世界に例えると・・・
親子はもちろんのこと兄弟など極めて近親での結婚や出産が法律で認められていない反面、
極めて遠い血(例えばヨーロッパ人の父と東洋人の母など)を持った両親からは、
スタイルもよく美しい子供が生まれてくる可能性が高いと言われています。
(もちろん統計的なデータでは有りませんし、「美しい」などは感覚的なものですが・・・笑。よくハーフはイケメン、美人が多いと言われますし、実際やはりそうですよね。)
それだけ遠い血(異系)の配合は健康的であるということなんですね。
まあ人間の世界では「優れた男性のみが複数の女性との間に子孫を設ける」
なんてことは有りませんから、
実際はそんな近親交配とは基本的に無縁なんですが・・・
この話になると、
限られた、優れた血の選抜で子孫を残すのが当たり前で有るサラブレッドも、
やはり人間と変わらない「生き物」なのだということを改めて実感します。
近すぎる血同士の交配というのは、
サラブレッドの世界でもリスクと隣り合わせであり、
瞬間的に優れた競争能力を発揮する馬が現れ優れた戦績を残したとしても、
長期的な系統の繁栄という面で見ると衰退の可能性(不健康さ)が高くなるというわけです。
今回の主人公であるノーザンダンサーはイギリスから遠く離れた北米カナダにて、
当時の欧州競馬の近親交配に対する「血の警告」を発する存在として誕生しました。
そして当時のサラブレッド界においては極めて異系で健康的な血を持ち、
その凄まじい遺伝力と適応能力で、
世界中に歴史的な「血の拡大と繁栄」をもたらしました。
そんな歴史的な種牡馬の物語を、
今回は前編と後編に分けて書いていきたいと思います。
■ノーザンダンサー(1961年 カナダ生まれ)
ノーザンダンサーは、
当時競馬の後進国であった北米カナダの年度代表馬であったニアークティックと、
後にミスタープロスペクターの祖となり一大系統を築き上げる事となる、
北米異系活性血統馬のネイティヴダンサー(この馬はシックルの系統ですね)を父に持つ、
母ナタルマの間に生まれた、母の初仔でした。
ここで少し、
ノーザンダンサーの両親について話をしていきます。
父ニアークティックは「父ネアルコ×母父ハイペリオン」という欧州的な名血の配合で生まれたカナダ産馬で、
カナダとアメリカで47戦して21勝という競走成績を上げています。
彼はビール事業の成功で莫大な財を成した事業家であり、
馬産家としても名高い「エドワード・P・テイラー」という人物の生産馬でした。
テイラーは「カナダ産馬からケンタッキー・ダービー馬を出す」という大きな野望を持った人物で、
生産馬であるニアークティックやヴィクトリアパークという優駿たちにその願いを託してレースに送り込んだのですが・・・
2頭ともテイラーの野望には届きませんでした。
(後にニアークティックの息子であるノーザンダンサーで、ついに野望を叶えることになるのですが。)
ニアークティックは非常に気性の荒い馬で、
その肉体の強靭さに支えられた爆発的な気性の強さは、
レースでの統制のしづらさという欠点にもつながってしまい、
左後ろ脚の裂蹄に悩まされたことと合わせて、
秘められた多大な潜在能力を競馬場では存分に発揮できずに終わってしまった、
と言われています。
母のナタルマは北米土着の健康で強い遺伝力を発揮する「北米異系活性血統馬(当時の欧州から見ると、いわゆる雑草血統という事になるわけですが)」であり、
そのレースぶりから「グレイゴースト(灰色の幽霊)」と言われた名馬ネイティヴダンサーを父に持ち、
後にコスマーという繁殖牝馬を通じてサンデーサイレンスやタイキシャトルなどにつながるヘイローを輩出する北米の超名牝アルマムードを母に持つ馬でした。
このように書いているとノーザンダンサーは素晴らしい良血馬のようにも思えますが、
当時のニアークティックは世界的に見ると全くの「田舎の無名種牡馬」でしたし、
母のナタルマも当時は競馬後進地域であった北米土着血統の競争馬・繁殖牝馬。
そしてニアークティックとナタルマから生まれたノーザンダンサーの全弟妹たちは、
競争馬としても繁殖馬としても鳴かず飛ばずで終わっています。
(前弟のノーザンネイティヴとトランスアトランティックは、種牡馬として日本に輸入されました。)
つまりノーザンダンサーが優れた健康的な血統背景を持った馬であったのは間違いないところなのですが、
その競争能力や種牡馬としての世界的な成功は、
ノーザンダンサー自身としての資質の高さによるものが大きかったのではないかと考えられます。
そんな両親から生まれたノーザンダンサー。
その地味な血統と小柄で見栄えのしない馬体で、
当時のカナダのせりでは売れ残ってしまった経験を持つ馬だというので驚きです。
確かにノーザンダンサーの写真を見ると、
手脚が非常に短くずんぐりとしている印象を受ける馬で、
見た目からはとても優れた競走成績と、
世界的な繁栄をもたらす種牡馬としてのポテンシャルを持った馬だとは見えません。(色メガネで見ても・・・)
しかしカナダで競争馬としてデビューすると向かうところ敵なしの強さで、
カナダの最優秀2歳馬に輝きます。
そして3歳時にアメリカに転戦し、
米三冠の1つ目のレースである、ケンタッキー・ダービーをレコードで制して生産者テイラーの野望を実現させるのです。
(このケンタッキー・ダービーでの2分フラットというタイムは、
1973年に米三冠馬のセクレタリアトに破られるまで長くに渡りレコードを保持していました。)
2つ目のレースであるプリークネスステークスも楽勝しましたが、
最終関門のベルモントステークスでは3着に敗れて、
クラシックディスタンスへの距離の限界を示します。
通算成績18戦14勝。
のちに世界を震撼させる「血統革命」を起こす世紀の大種牡馬ノーザンダンサーは、
その卓越したスピードを競争馬としても遺憾なく発揮し、
優れた競走成績を残して競争生活を引退することとなりました。
さて、、、、次回はノーザンダンサーの、
種牡馬入り後の活躍について記していきたいと思います。
引退した直後は、
せりに出されたときと同様に種牡馬としても評価の低かったノーザンダンサー。
しかし、そんな評価をあざ笑うかの如く、
彼は凄まじい繁殖能力で歴史的な名馬たちを次々と生み出し、
ついには世界最高の種牡馬となって世界中にノーザンダンサー系の血を築いて、
その系統の祖となっていくのです。
ぜひお楽しみに(^^)
今回も最後までご覧いただき、誠に有難うございました。
ではまた次回。